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社長の生い立ちと「家づくりへの想い」

誕生~幼少時代

昭和33年 米沢市の自宅にて、

富井家の3番目の子で、長男として誕生。

三歳上に死産の兄がいたと聞きました。

兄が生きていれば、私は生まれることがなかった

かもしれません。私は、待望の跡継ぎでした。

共働きの父と母 姉2人と祖母の6人家族。

代々先生の家系であったこと、祖母が小学校の先生を

していたこともあり、家風は厳格

しかし、父は右半身が不自由な身体でしたので、

経済的にも苦しく貧しい家庭でした。

幼い頃の私は、元気でチョロチョロだったのでしょう。

車に跳ねられ、頭蓋骨挫傷の大怪我をする事故に遭います。

意識が戻ったのは3日後。

私が生死を彷徨っている間に、母方の祖父が、私の命と引き替え

といってもいいくらいの時刻に息を引き取ったそうです。

今思えば、兄に祖父、

私に命をつないでくれたのだと思わざるを得ません。

小学時代

事故から数年後、突然、右耳に激痛が走りました。

交通事故で頭を打った影響だったのでしょうか。

慢性中耳炎になってしまいました。

治療に通うも、なかなか治らず「耳」には、長らく

苦労することになります。

その後、父が突然勤めを辞め、自営で牛乳販売業

を始めることになりました。家族総出の手伝い。

夏は早朝、冬は夕方から夜。雨の日も、吹雪の時も、

学校の試験の時も関係ない、、、自転車での配達

私には、大変苦痛で辛い時期でした。 

思えば、どの家庭も生きるために必死だった時代の

ように感じます。

そんな中でも、誕生日にはプラモデルを買ってもらえること

が1番の楽しみでした。

夜の自転車配達で知った、星空の美しさに魅了され、星座を

覚えるきっかけになりました。

そして、知らず知らずについた体力と忍耐力。

学校生活の運動や勉強で自然と結果が現れることがあり、

頑張っていれば、「良いこともあるもんだ」と思いました。

牛乳配達の手伝いは、なんと就職して5年目の23歳まで続きました。

中学時代

1971年 米沢第一中学校 入学

ここでも「耳」の病気の事が尾を引きます。激しい運動や水泳も出来ず

工作クラブに入部。

モノづくりが好きな私は夢中になります。この経験が、今の仕事にも

繋がっていると思っています。

のこぎりやカンナを使い、本棚や飾り棚作り。機械や道具の使い方も

上手になりました。

それから、先生の目を盗んで工作台でする「卓球」は、裏クラブ

というほど熱中しました。

毎日の活動ですから、上達したことは言うまでもありません。

顧問の先生に見つかっては、叱られることもしばしば。

そんな友達との日常が楽しい時期でした。

モテ期と呼ばれる淡い恋もあったような・・

なかったような・・。

大切な思い出は心にしまっておきます。

進路を決める時期になります。

その頃の私は、将来は大学進学という頭はなく、

早く家計を助けたい思いでした。

そうとなれば、手に職をとつけたいと、

迷わず工業高校への進学を決めます。

高校時代

1974年4月  米沢工業高校 建築科 入学

「耳」が悪いのは続いていましたが、少し運動したい思いが

ありました。弓道部だと激しい運動がほとんど無いと思って

入部したのです。ところが、ランニングの日々。

現実は思った以上に激しく、、、考えが甘かったのでした。

社会人の重い弓を引いたことから、結果、不本意ながら肩を壊し、

二年生で退部してしまいます。

ほろ苦さの残る青春の想い出でした。
それからは、放課後は、友達の家に直行の毎日

吉田拓郎 ユーミン 小椋佳 かぐや姫が流行った

フォーク全盛時代です。夢中で曲を聴きました。

ギタークラブと称し、ギターのコードを覚えては

友達と作詞・作曲シンガーソングライター

さながらの気分でした。残念ながら発表する機会は

ありませんでしたが・・。

ギターを買うための年賀状のアルバイトも頑張りました。

平凡な日々が、なんとも楽しい学生生活でした。

就職  - 社会人デビュー -

1977年4月 地元工務店に就職

就職氷河期で、募集自体が少なく就職先が決まったのは、

卒業式が終わってからでした。

小さな会社のため、現場管理というよりほぼ作業員として

仕事を覚えていきました。

鉄筋を組んだり、コンクリートを練ったり、木造の建て方で

大工さんの手伝いや足場を架けたり、竣工クリーニングなど、

体で覚え、今の仕事の基本が出来上がりました。

二級建築士も順調に取ることが出来ました。

木造の家づくりが大好きになるキッカケとなった会社でした。

休日は友達と車で遠出したり、趣味の写真を始めたのも

ちょうどこの頃です。

里山の「蝶」を撮る写真は、今も続けています。

転職  -チャレンジ-

1981年 もっと高みを目指したいと思い地元では大きな会社に転職。

1980年代後半は、バブル絶頂期を迎える頃です。

建物がどんどん建った時代でした。木造系の住宅や鉄骨系の建物

も任され、現場の掛け持ち、残業は当たり前。

土日出勤と休みもなく、今の常識では考えられない状況だったと

思います。それでも早く仕事を覚えたいと、無我夢中で働きました。

実に「いきいき」としていたと思います。

苦労はあるけれど、「完成した時の喜び」は格別です。

お客様の喜ぶ顔や「ありがとう」の一言が現場代理人冥利に尽き、

この仕事を今でも続けられた一番の要因になっています。


現場にも、会社にも慣れてきた頃、突然、肝臓が悪くなり入院。

やっとその時に、子供の頃からの悩みだった「耳」の相談をしました。

その後、「耳」の手術をして、ようやく完治。

しかし今でも右耳は鼓膜が再生しないまま、聞こえない状況です。

「耳をもう少し放っておいたら命がなかったよ」と主治医に教えられました。

30代~40代前半 -健康を取り戻して-

子供の頃から続いた病気が治り、

「健康」が何よりも大切なことをこの時に知りました。

その後は、身体も丈夫になり、一級建築士にも挑戦。

遊びはなし!と覚悟を決めて、仕事の後や休日

1年間学校に通いました。仕事と勉強の両立は大変でしたが、

努力のかいあって、一発合格でした。

ますます意欲もわき、仕事一筋の日々でした。

海外研修旅行に行った楽しい思い出もあります。

シンガポール・マレーシア・フィリピン・ハワイ・アメリカ・・日本でも全国各地に・・。

本当に色んなところに行き、見聞きしました。

さまざまな分野の現場や設計部門にも関わることが出来て、

技術を磨いたり勉強するチャンスに恵まれました。

「家づくりの知識」を得たり、幅広く見聞きすることが

出来た時期だったと思います。

家づくりの変遷 -見て感じてきた事-

私が実際に見て感じた木造住宅の構造の移り変わりを

少しお話します。

【1990年代前半までの家づくり 】

既製品のドアや枠材、集成材などはまだ少なく

大工さんが無垢材を1本1本加工し取付けるという

手間をかけた丁寧な仕事が主流でした。

しかし窓の気密性や断熱性が悪く、今から見れば寒い家でした。

調湿してくれる塗り壁の和室が必ずある家づくりで一軒一軒個性のあるものが多かった時代です。

【1990年代中頃からの家づくり 】

「高気密・高断熱」とい言葉が出回るようになりました。

暖房した空気が逃げないように、外壁・天井の室内側

全面をビニールシートですっぽり覆った家です。

この頃から接着剤で成型した既製品ドアや枠材、階段材が

多用されてきました。壁・天井はビニールクロス。

和室すらもビニールクロスに変わっていきました。

もうこれはビニールハウスです。

生産性も背景にあったのでしょうか。個性がなくなり、どの家も同じ

ような作りになってきたのもこの頃からです。

家づくりに抱いた『疑問』 

私が20代前半、ある現場で押入れを開けた瞬間、ぱちぱちと音を立て、

目から星がでるような感覚がありました。これが何かは、その時は

わかりませんでしたが、それが今問題になっているホルムアルデヒド

(シックハウス症候群の代表的な物質)だったとわかったのは、

ずいぶん後からでした。

また、私が30代半になった頃、他社の工法を採用した現場で、ビニールシートの裏面についた水滴が逃げられ

なくなっているのを見ることがありました。

いったいこの湿気はどこに行ってどうなるのだろう??と、こんな施工はおかしいと馴染めませんでした。

そして、世の中は、ビニールを張りめぐらせた暖かい家づくりが主流となりました。

その結果、シックハウス症候群が出て、社会問題となっていきます。

アレルギー、アトピー、喘息、めまい、鼻血、化学物質過敏症・・

シックハウス症候群が激化した結果、建物に24時間換気扇の設置が義務となりました。

高気密高断熱の住宅に穴をあけ、暖かい省エネ住宅に2時間に1回空気の入れ替え出来る能力を

持った換気扇をつけるという法律です。

せっかく温めた室内空気を捨ててしまうこと、24時間換気扇を、暮らしていく間ずっと換気扇を

回さなくてはならない「漏エネ住宅」の家づくりに私の疑問はつのります。

「換気扇を止めたら危険な家だよな・・」と。今も思い続けています。

独立 -地域密着工務店「Y・Y工房」 設立-

創設当時の事務所
自分が正しいと思う「家づくり」がしたいと思い始めます。

22年3ヶ月勤めた会社を辞める決心をします。

二人目の子供が生まれた年の事で、妻からは

「これからどうして食べていくの?」と言われました。

大変心配をかけました。

私を後押しし、仕事に集中できるよう、陰ながらサポートしてくれた

妻には感謝しかありません。


2004年4月 独立

今まで経験してきたことを正直に伝えたい。

お客様が健康で幸せに暮らせる家づくりがしたいとの想いで、

地域密着工務店「Y・Y工房」としてスタートしました。


「Y・Y工房」の名称は、私と妻の名前のイニシャルからとり

「わいわい賑やかに人が集まる場所でありたい」

という願いが込めてあります。

運命の出会い -WBHOUSE(WB工法)/深呼吸したくなる家-

ある時、疑問に思っていた「24時間換気扇義務」の件が解消できること

になりました。

今、私が採用している「WBHOUSE(通気断熱WB工法/深呼吸したくなる家」

(開発元:ウッドビルド)との運命的な出会いです。

自然の力を取り入れ、電気も使わず、室内の化学物質はもちろん、

壁内の湿気も排出し構造体の蒸れ腐れもない、

家丸ごと空気清浄機の家。

形状記憶合金を組み込んだ給気口や換気口で冬暖かく、夏涼しい家になる。

理にかなっています。

「これだ!」と思いました。私の家づくりの「疑問」を全て解決することが

できた「究極の健康住宅」なのです。

自然素材を多用したから良いとは限りません。実際に自然素材を使うも、「WB工法」は必要ない

と言って新築した方が引き渡し後に「シックハウス症候群」になり、住めなかった例も全国には

あるのです。

私は、古きよき日本建築の伝統技術(木造在来工法)+現在の知恵(WB工法)を全棟取り入れた

家づくりをする「覚悟」を決めます。

家づくりへの想い -変わらない思い・願い-

あなたが家を建てる理由は何ですか?

私が40年以上家づくりに関わり、住まいづくりの良し悪しを知り、

導き出した答えは「家族の幸せを守るため」です。

その家族の幸せを守る家が、「シックハウス」を引き起こす家や、

蒸れ腐れで耐震性が無くなった家では困ります。

家づくりを知り携わる者として、お客様の「健康」と「財産」を守りたい。

そして、お客様が「家」を建てることで、

そこに暮らす「家族の笑顔」があふれ幸せをプラスできるように・・

そう願っています。

「幸せ」は「健康」でなければ叶わない。

それは「人」も「建物」も同じではないでしょうか。

その変わらない家づくりへの想いや願いが

Y・Y工房の家づくり「WBHOUSE/深呼吸したくなる家」なのです。

Y・Y工房は、家づくりのパートナーとして

日々学び、新しい技術や知識を積み重ね

より良いものを提供できるように努力をし続けています。

変わらぬ想いと、変わり続ける時代に合わせた家づくり。

Y・Y工房は、これからも挑戦しつづける会社です。
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